秋は駆け抜けるように過ぎ、風は冬の訪れを告げる。季節の輪は終わりに近付いていた。
その間、二人、彩女と優糸は、普通の「恋人」の関係を続けていた。もちろん、沙々夜にはやされたり、見知らぬ人ににらまれたり、色々なことはあったのだが。
優糸の後ろにあるもの。彩女にはまだ分からなかった。むしろ、優糸に会う毎に、ますます深いところに隠れて、見えなくなっていくようだった。
だが、そんなことも、もうどうでも良くなっていた。いつしか優糸といるだけで満足するようになっていた。心の中に、新たに芽生えたもの。彩女は未だその名を知らずにいた。
ねぇ…ねぇ…
内なる声が優糸を呼ぶ。最近は以前にもまして、聞こえることが多くなった。
また、あの女に会いに行くの…？わたし、嫌…
あの女が憎いの。わたしからあなたを奪う、あの女が
何でそんなことを言うんだ。あの娘はそんな娘じゃない。君はずっと、ボクの中にいていいんだよ…
まるで泣きじゃくる子供をあやすように、優糸は答えた。声―優糸が受け入れた、あの蜘蛛の魂―を、優糸は「君」と呼んでいた。何も名付けるのが面倒だったからではないが、そんなに悪い名ではないと思う。
あの女は、いつかあなたの心を埋めてしまう。わたし、怖いの…居場所が無くなっちゃうの…もう暗い中を彷徨うのは嫌。ずっと、あなたの中にいたいのに―あの女が憎いの。消シテシマイタイホド―
「これで、四つ！」
気合いと共に繰り出した木刀が、奇怪な生き物の頭蓋を砕く。汚臭を放つ体液が、そこかしこに散乱した。
「次ッ！お前だっ！」
返す刀で、静女は逆風に薙いだ。すぐ向こうにいたもう一匹を弾き飛ばす。
「静女ちゃ〜ん、がんばって〜♪」
彩女の気が抜けるような声援。思わず静女はこけそうになる。
「応援してる暇があるんなら、ちょっとは手伝え！」
そう叫びながら、別の一匹を打ち据える。六つ。飛び散る緑色の液体を横目に呟いた。
餓鬼。醜く腹が突き出た小鬼。ひたすら欲望のままに動く、黄泉の住人である。本来は現世にはいないのだが、時たまフラッと出てくる。大抵は強い霊力―彩女や静女のような―に引かれて。
「あ〜ら、せっかく母さまが作って下すった服ですもの。汚したくはありませんわ」
やはり、緊張感の欠如した声で言う彩女。その実、一人だけ結界を張って、のほほんとしている。餓鬼達は近寄ろうともしない。結果、小鬼達は静女に殺到していた。
「七ッ！」
袈裟懸けに振り下ろす。飛び散る汚液が静女の道着を汚すが、気にもしない。崩れ落ちる小鬼の頭部を蹴り飛ばす。トドメだ。
「汚れりゃ洗えばいいんだよ！」
頬についた血をぐいと拭う。全身血にまみれた静女とは対照に、彩女は白と朱の巫女装束をまとっていた。その白は未だ汚れを知らない。静女の分もあるのだが、どうも苦手なのだ。
神社の境内。苔むした樹々が時の流れを語る。閑静な空気に、小鬼達の死骸、二人の巫女。その奇妙なミスマッチにも、悠久を過ごしてきた空間は身じろぎもしなかった。
ここは両親の思い出の場所。二人が初めて会った―正確には再会した場所だ。そんな所が小鬼風情に蹂躙されるのは、静女には苦しい。だから。
「これで、ラスト！」
最後の一匹の喉笛を砕く。静女は木刀についた血糊を道着の裾で拭った。
「ご苦労様、静女ちゃん♪がんばったわねぇ。偉いわ」
背後から彩女がねぎらう。声の調子は相変わらずだ。静女は年下扱いされるのは嫌いだが、少し心地よいところもある。姉妹―だからだろうか。
「彩もちょっとは手伝えよな。もし俺が死んでたら、絶っっ対、彩のせいだからな！」
「大丈夫よ。だって、静女ちゃんは強い子ですもの♪」
チッ、と舌打ちし、プイと横を向いた。深呼吸し、乱れた息を整える。胸に手を当てると、心臓の鼓動がまだ速いのがわかった。
…体が、まだうずく。もっと強い奴と戦いたい。もっと激しくて、危ない奴と戦いたい。体が、そう求めていた。
危ないな。静女は内心苦笑した。これでは、いつか戦いに魅入られてしまう。そうなってからでは遅いのだが―この体の火照りは、収まりそうにない…。
「彩―」
帰るよ、と言いかけた、その時。
空間に戦慄が走った。木刀を握りなおす。彩女も鋭い視線をあたりに走らせた。
―いる。餓鬼などとは比べものにならない、何かが。
二人は周りの気を探った。…右？左？それとも―
「正面?」
前方。暗い林の中から、巨大な蜘蛛が躍り出た。八肢が目まぐるしく動き、二人に迫る。
「ハッ！中ボスってところか！」
静女ははやる体を押さえきれずに、蜘蛛に突っ込んだ。体が熱い。アドレナリンが体中を駆けめぐる。
「…何?」
蜘蛛は静女の横をすり抜ける。予想外。反応できなかった。
―こいつ、彩を狙ってる?
無視された怒りよりも、彩女のことが気になった。これも静女の性だ。
ガシィ！ガシィ！
結界を叩く音が何度も響いた。蜘蛛が脚を振り、あるいはツメで結界を破ろうとしている。その中で、彩女は笑っていた。
「くすくす…わたくし、結界術では母さまにも引けを取りませんの。その程度では破れませんわ…?」
声がうわずる。蜘蛛のツメが結界に食い込み、こじ開けようとしていた。異物を排除しようと、結界がスパークする。蜘蛛は皮膚を焼きながらも隙間を拡げる。焦げ臭い、嫌な臭いが漂った。
「そんな…わたくしの術が…？」
隙間はどんどん広がり、ついに蜘蛛の頭部が侵入した。ニメートルはある頭を巡らせ、幾つもの目で立ちすくむ巫女を見つめる。彩女の数十センチ先で顎がうごめき、唾液がしたたりおちる。
「いや…いや…助けて…優糸さん…！」
両手を胸の前で握りしめる。口を突いて出た名が、両親でもなく、妹でもないことに彩女は気付かなかった。
蜘蛛の脚がゆらりと動き―突き出した。彩女は一刹那先の死を覚悟し、目を固くつむった。静女の声が聞こえたような気がした。
―痛みは無かった。ゆっくりと目を開くと、蜘蛛のツメは一寸先で止まっていた。
「あ…？」
彩女は蜘蛛の目に気付いた。さっきまでの殺意に満ちた目ではない。愛惜と後悔の目。
「あ、あなた…もしや…？」
「てめぇ！調子に乗ってんじゃねぇ！」
彩女が手を伸ばすより先。静女が蜘蛛の腋を斬った。木刀からあがる気炎が皮膚を裂き、ただれさせる。
シギィィィィ！
悲鳴を上げる蜘蛛は二撃目を振るう静女をかわし、後退する。
「逃がすかよっ！」
「だめっ！行かないで！」
追おうとする静女を、彩女が止めた。その間に蜘蛛は煙のように消えてしまった。
「お願い…今は、行かないで…一人にしないで…」
「彩…？」
静女は、姉の顔が青ざめているのに気付いた。その場にへたり込み、両手で自らを抱く姿は、いつもの彩女ではない。
「こわい…わからないけど、こわいの…とても嫌な予感がするの…」
誰に言っているのかわからない言葉を吐く姉から、静女は目をそらした。見ているのが辛かった。
―今の、ただの化物じゃねえ。最初から彩を狙ってた…何なんだ？
もやもやした感覚が頭を渦巻く。静女はこんな感覚は嫌いだった。
天を仰ぐ。いつの間にか、蒼穹は暗雲に覆われていた。
ポタッ
静女の額を雨粒が打つ。地面に幾つもの斑点ができ、重なり、やがて一面に広がった。
雨足が早まる中。二人は言葉も交わさず立ち尽くした。
３Ｐ目へ
５Ｐ目へ