「ふぅ…」
面を外しながら、南雲優糸は溜め息をついた。学校の道場。部活もそろそろ終わる頃だ。道場では部員達が後かたづけを始めていた。
「よぉ、優糸」
優糸の隣りに、防具を付けたままの男が、どっかと座った。優糸とは対照的に、たくましい体格をしている。
「お前昨日、ケンカしたらしいな?女を助けたんだって?」
―早いな
噂が広がるのが予想以上に早い。優糸は、人の話題になるのが好きな方ではない。昨日のことも内密にしておきたかったが…。
「で、どんな女だ?美人か?」
「やめてくれ、涼樹。ボクには関係ないよ」
しつこく聞いてくる涼樹に、優糸は必要以上に冷たく言った。運動後の、あの体臭が優糸の鼻腔をつく。露骨に顔をしかめてみるが、涼樹は気にする様子もない。優糸は、こんな似合わない名を付けた涼樹の親を恨んだ。もっとも、顔すら知らないのだが。
「隠すなって。俺とお前の仲じゃねーか」
「だから関係ないって言ってるだろ…」
なおも問いつめる涼樹に、何とか振り切ろうとする優糸。二人の会話が水掛け論になりかかったとき。
「あの…南雲先輩。ご用があるって方が、あちらに…」
道着を着た少女が遠慮がちに言った。頬が少し上気しているのは、稽古のためだけではない。
かわいい部類に入る娘だが、優糸は少女が示す方に気を取られていた。―彩女だ。
「え…あ、ああ。わざわざすまないね」
そう言って微笑みかける。
「いえ、そんな、私…」
目を伏せてしまった少女は耳まで紅潮していた。優糸はこれ以上彼女にかまわず、彩女の方に歩いていった。
涼樹は、優糸を見送る少女の目に、憧れと少しばかりの妬みを見取った。こういうことにはやけに鋭い。
「あ〜あ。何でこう、もてる奴は決まってるのかねぇ?」
そう言って頭を掻きむしる。少女の耳にはその言葉すら入っていなかった。
優糸は嬉しさと戸惑いで複雑な心境だった。嬉しいのは、隣りにあの少女がいること。戸惑うのは、何を言えばいいかわからないこと。
「あの…南雲さん?」
怪訝そうに聞いてくる彩女。そういえば、会話が途絶えて結構になる。
帰り道。なりゆきで一緒になってしまった。
「うん…何だい?」
「そんなに固くならずとも良いのですよ。…私の方が年下ですのに」
口に手を当て、クスクスと笑う。その可憐とも妖艶とも取れる仕草に、優糸はさらに戸惑ってしまった。この娘は何でも見透かしているようだ。心の奥底―あの事までも。
「本当、先日は助かりましたわ。でも、人の後を付けるのは感心しませんわ」
「き、気付いてたの…?」
普段からは、想像も出来ないほど狼狽する優糸。事実である。何とか彩女に近付く機会を、ずっとうかがっていたのだ。
「まぁ…本当でしたの?ただの冗談でしたのに…ああ、これが例の『すとぉかぁ』というものですね♪流行ってるんですの?」
驚くよりも先に、コロコロと笑う。優糸は何も言えなかった。みたい、ではなく、そのものなのだ。一歩間違えれば犯罪である。
「…悩み事があるんですのね。放っておくと心が割れてしまうほどの悩みが…苦しいのでしょう?」
彩女の顔から笑みが消える。視線を下げ、地面をじっと見つめる。その眼差しは哀れみと優しさを併せ持っていた。
思ったより、感情の起伏がある娘なのかな―優糸にはちょっと意外だった。
「だから、ほら、お姉さんに話してみなさいな♪」
そう言う彩女の声は、やたらと嬉しそうだ。顔にはまた笑顔が戻っている。一人称が「お姉さん」になっているのに気付いていない。最も、優糸にはどうでもいいことであるが。
―前言撤回。やっぱりマイペースな娘だ。油断すると引き込まれてしまう―
優糸は少し嬉しくなった。もともと、余りせわしい娘は好きではない。
「お礼といっては何ですけれど、わたくしに出来ることなら、お力になりますわ♪」
「本当…?」
「ええ。わたくしは虚言は申しません」
立ち止まり、彩女の目を見た。が、気恥ずかしさに、すぐそらしてしまう。
彩女は微笑んだまま優糸を見つめた。純粋に善意だけの視線。―やがて、優糸は意を決した。
「君に、ボクの恋人になってほしい」
―言った…!―
優糸は答えを待った。だが、返答は驚くほど早かった。
「ええ。よろしいですわ」
「え…ホントにいいの?」
あまりの事の運びように、逆に戸惑ってしまう。
「あなたといるのは、嫌ではありません。むしろ心地いいですわ」
小躍りしたい気分だ。今すぐこの娘を抱きしめたかった―出来るはずないがのだけれど。
―彩女はずっと微笑んだままだった。
―トントン、トントン
リズミカルな包丁の音が台所から聞こえてくる。その音を、静女はぼうっと聞いていた。今日の夕餉の当番は彩女である。食事をただ待つというのは、何とも楽なものだ。
―ああ、なんかイイことあったんだな―
この音の時は機嫌がよい証拠だ。静女にはわかった。
「あーやー、今日はご機嫌じゃない」
「あらあら。わかるかしら?」
食卓に出来たばかりの料理を並べながら答える。鼻腔をつく香りが食欲をそそる。
料理に関しては、彩女の方が少し―いや、かなり―上である。静女は、それがちょっと悔しい。
「音を聞いてりゃわかるって。なんかあったの?」
「実はね、今日ね、南雲さんに『恋人になってくれ』って言われたの」
また台所に戻った彩女が言う。声のトーンが少しも変わらないのが、いかにも彩女らしい。
「ふ〜ん…ッて?」
思わず椅子から立ち上がる。昨日の今日で、なんて奴。そんな男だとは思わなかった。買いかぶってたかな―俺もまだまだ甘いな。
「で、受けたの?」
「ええ。出来ることなら何でもします、って言ったんですもの。喜んでくだすって良かったですわ♪」
クラッ。急に立ちくらみが静女を襲った。わかっちゃいない。この調子じゃ、何にもわかっちゃいない。
「あんたね、どーゆーコトか分かってんの?」
答えの分かり切った問いほど、馬鹿なものもないな―静女はそう思う。
「あ〜ら静女ちゃん、あなたこそ、分かっているのかしら?」
「う…」
静女は言葉に詰まった。当たり前のことでも、いざとなると言いにくいもの。これでは、逆にしてやられている。
「彩は、どうなんだよ?」
「さあ、どうかしら?でも、ああいう方は嫌いではありません。それに…」
「それに?」
声のトーンが急に下がる。同時に、台所の音が止んだ。
「知りたいの…あの、後ろのあるものをね…」
最後の方は小さくなって、静女には聞き取れなかった。だが、あえて聞き直さなかった。―彩も、少しは考えてるんだ―
静女にはそっちの方が大事だった。いつもふわふわしている彩女が、きちんと考えて行動している―静女にはちょっと驚きである。
―でも、よりによってあんな奴につかまるとはねぇ…―
静女がそう思って溜め息を吐いたのは、彩女が台所から出てきたときだった。
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