窓の外は本降りだった。久しぶりの雨に森は喜んでいるようだった。
彩女は部屋に籠もっていた。ベッドで膝を抱え、何もない一点を見ていた。
部屋は暗い。稲光が時折中を照らした。その度、壁にかけられた弓の影が現れる。梓で作られた上物だ。母が使っていたのを受け継いだのだ。
ハァ…
何度目かの溜め息が漏れる。脳裏にはあの蜘蛛の目が焼き付いていた。
「まさか…でも、確かに…」
何度呟いたかわからない独り言。
彩女にはわかった。蜘蛛と目が合ったとき、なにもかも…。ただ。そう結論するのは、怖い。認めた瞬間、すべてが本当になりそうで…
嫌な考えを振りほどこうと、何度もかぶりを振ったが、無駄だった。夜の長さが恨めしい。早く朝になってほしい。そう願った。明日になっても、何も変わりはしないのに―
「…!」
確かに聞こえた。雨音に混じり、玄関の戸口を叩く音が。
「どなたでしょう…?こんな夜更けに…?」
両親は不在である。静女は入浴中。彩女が行くしかなかった。
「どなた…?」
少しの期待を込め、静かに問うた。
「…ボクだ。…優糸だ…」
「…!」
玄関を開ける。そこには会いたかった男がいた。傘もささず、濡れるがままに。
「優糸さん…!」
濡れるのも構わず、ずぶ濡れの優糸に抱きついた。雨に冷えた体は冷たかったが、彩女には暖かい。全身を打つ雨粒も、こうすれば心地よい―
何用ですか、とは聞かなかった。ただ、優糸を感じていたい。そうすれば、あの嫌な考えから逃げていられる。そう思って。
優糸は彩女の、か細い肩を抱こうとした―できなかった。
「ごめん、彩女ちゃん…ごめん…」
「……」
彩女は答えなかった。答えてしまうと、今が無くなりそうで。だから。
逃げるな。静女ならそう言うだろう。わかっていた。いつまでも目をそらすわけにはいかない。でも…今だけは…。
「もう、会えない…ずっと…」
優糸は彩女の手を取り、自分の脇腹にそっと這わせた。傷があった。新しい、深い傷。出血しているのか、していないのか…。雨はそれすらも覆い隠していた。
「とにかく、ごめん…さよなら…」
ゆっくりと彩女を離す。雷光が一瞬、闇夜を照らした。かいま見えるその顔が語るものを、彩女は読みとれなかった。涙と雨で、何も見えない―
ただ。優糸のぬくもりが離れていくのがわかった。早く、遠くに―
彩女は追わなかった―追えなかった。脚に力が入らない。倒れるようにへたり込んだ。
手から、優糸の体温の跡が急速に消えていく。雨が恨めしい。何もかも、想い出すらも流してしまうような雨が―
開けっ放しの廊下の奥。静女は黙ってそれを見ていた。


次の日、優糸は学校に来なかった。次の日も、その次の日も。
家にもいないようだった。捜索願が、既に出ていた。
だが、優糸の行方は一向にわからなかった。
彩女に出来る事は、ただ一つだった。


透き通った空気がゆっくりと流れる。
あの神社の、社の中。彩女は禅を組み、気を展開していた。
こうしていれば、あの人に会える。確信はないが、自信はある。彩女は霊力のフィールドをさらに拡げた。母の手製の巫女服が、彩女の霊気を増幅してくれる。
ピン、と、張り詰めた空気が振動した。振動はどんどん周波数を上げ、近付いてくる。
―お出でになりましたね―
ゆっくりと立ち上がり、社の戸を開けた。
案の定―蜘蛛がいた。複眼のそれぞれに、彩女の姿が映る。
「やっぱり、あなただったのですね。優糸さん…」
蜘蛛を見据える。空っぽだった。優糸に会いたい一心で、次のことなど考えてもいなかった。
「彩女ちゃん。出来れば、もう会いたくはなかった…こんな姿になって、もう君の側にはいられないんだ…」
蜘蛛の口から漏れる声は、まさに優糸のそれだった。視覚と聴覚のアンバランスを、彩女は黙って受け止めた。
優糸は少しずつ語った。蜘蛛を受け入れたこと。彼女の妬み。もう自分には抑えきれないことを。
「今は何とか抑え込んでる。でも、すぐにこの子は起きる…その時は彩女ちゃん、君が危ないんだ…だから…」
優糸が言葉を切る。彩女はただじっと待った。
やがて―優糸はぽつりと言った。ボクを消してくれ―と。


「そんな…嫌です…できません…」
彩女はゆっくりと階段を降りた。一段一段、踏みしめるように。
「優しい…優しすぎます、優糸さん!」
「彩女ちゃん…」
巫女服の少女は蜘蛛に近づいていった。近いはずの距離が、ひどく遠い。
「何でそうまでして、ひとの哀しみを受け入れるのです?どうして、あなたを想う人のことを想ってくださらないのですか?わたくしにも、もっと…もっと、優しくして…!」
爆発した。優糸への気持ち。現実の理不尽さ。好きな男も救えない己の無力さ。すべてに対する感情が爆発した。
そう。この時初めて、彩女は「好き」という感情を理解した。それは両親や妹に対する愛情とは違っていた。
彩女は泣いていた。蜘蛛の脚にすがり、声を殺して泣いた。
「彩女ちゃん…もう、時間がないんだ…放っておいても、この子は悲しいだけだよ…だから、君に消されたい………うっ?」
「えっ?」
見上げた彩女の目に映ったのは、蜘蛛の目だった。さっきまでの、優しい光ではない。嫉妬と憎しみに満ちた目だ。
「くっ?」
蜘蛛の脚が彩女を弾き飛ばす。背後の樹にしたたかに打ちつけられた。
「アナタガ憎イノ…ワタシカラコノ人ヲ取ル、アナタガ憎イノ…」
「そんなっ…わたくしはっ…!」
痛みをこらえながら、吐き出すように言う。唇の端から、紅い血がつうっと流れた。さっき切ってしまったのだろう。
「モウ嫌ナノ…アノ暗イ中ニ戻ルノハ嫌…ズットコノ人トイタイノニ…アナタガコノ人ノ心ヲ埋メテシマウカラ…!」
蜘蛛は腕を鎌首のようにもたげ、爪の切っ先を彩女に向けた。腕が伸びる。彩女に向かい、真っ直ぐに。先端が鏑矢のような音をたてる。
彩女は動けなかった。どうしたらいいのかわからない。目の前の、圧倒的な負の形に圧されていた。
―ああ…母さま、父さま…彩女は、どうすれば…―
よけなきゃ、と思ったときには遅かった。かわしきれない。待っているのは、確実な死。それもいいかしら、と心のどこかで思った。
切っ先は届かなかった。彩女の目の前で、蜘蛛の脚が両断されていた。彼女にはひどくゆっくり見えた。
「何ボーっとしてんだ!あれぐらい避けられるだろ?」
「…静女、ちゃん…?」
彩女の虚ろな瞳には、血が滴る木刀を手にした妹が映った。
「ずっと隠れて見てたよ…だいたいのことはわかってる」
静女はちらっと後ろを見、すぐに視線を戻した。
どうやって優糸を助けるのか。そんなことは静女は知らない。ただ、消えたいと言うのなら、そうしてやる。それが「救い」じゃないか。そう思う。
「俺が引導を渡してやる!せめてもの、俺の慈悲だ!」
言うより先に木刀に気炎がわいた。蜘蛛の血が蒸発する。
蜘蛛の脚がまた蛇のようにしなる。二本。曲線を描いて伸びた。
「そんな腑抜け面するな!いつもの彩はどうしたんだよ?」
静女は蜘蛛には向かわず、迫る脚を弾いた。この場を動けば彩女が危ないことくらいわかっている。
「でも、優糸さんが…」
「でもじゃねえ!お前はどうなんだよ?好きなんだろ!優糸が!だったら…」
姉をお前と呼ぶのは初めてだった。でも、今はそう呼びたい。
攻撃の脚が増える。三方向からの連撃を、静女は何とかしのいだ。だが、きつい。爪の先がかすって、頬に紅い筋が通る。
「だったら…だったら、それらしくしろよっ!お前は、俺の『姉』だろうがっ>」
「>」
蜘蛛の顎から糸が吐き出される。糸は弾丸のように飛び、木刀に絡み付いた。
「ハッ!蜘蛛の本領発揮、ってところか?」
口で強がりを言っても意味がない。糸は次々に吐き出され、腕に脚に絡み付いた。自由が利かない。
静女の目の前で、蜘蛛の爪がゆっくりと向けられる。ゆっくりと、静女の胸に狙いを定めて。
―本気でやれりゃ、こんな奴にっ!
爪が動く。速く、真っ直ぐに。
静女は死ぬ気がしなかった。俺がこんな所で死ぬはずがない。まだカラダが熱いんだ―

爪は届かなかった―止められていた。
「彩っ?」
いつの間にか動いた彩女は、右の手のひらだけで爪を止めていた。いや、薄衣のような光のベールが間にある。
「何人たりとも、わたくしの大切な人を手に掛けること…まかりなりません。罪の重さを知りなさい」
静かに言う彩女を、静女は初めて怖いと思った。怒りと憎悪が空気を通し、体を震わせる。こんなにも猛る姉を見たことがない。
「でも…あなたも寂しいのよね。ここであなたを殺めても、何にもならないものね…」
声の調子が急に柔らかくなる。それと共に、憎悪の念も小さくなっていった。
彩女が一歩踏み出す。蜘蛛は爪を引き、後ずさった。
「静女ちゃん、わたくし、考えましたの。どうやったらみんな救えるのかな、って。優糸さんも、この子も、みんな…」
「彩…?」
一歩、一歩。少しずつ近付いていく。
「でね、わかりましたの。わたくしにできる、一番のこと」
彩女が両手を拡げる。その姿は、何かの宗教画の聖女を連想させた。
「さあ、わたしの中にいらっしゃい。ずっと一緒にいてあげます」
「何を言うんだ、彩!」
彩女は目だけを妹に向ける。決意の色が瞳にあった。
「これがわたしの戦いです。見ていてください」
彩女の足が蜘蛛へと向かう。蜘蛛は動かず―動けず、低くうなりを上げた。
「怖がらなくていいのですよ…」
彩女の細い指が蜘蛛の顎に触れる。唾液が腕を伝い、服を汚した。
「寂しかったでしょうね…?寒かったでしょうね…?だから、優糸さんと居たいんでしょうね…」
服が汚れるのも構わず、彩女は両手で蜘蛛を抱いた。うなりが小さくなり、あれほど激しかった殺気が弱くなる。
「でもね…その人はね、あなたのものでも…わたしのものでもないの。本当に好きなら、離してあげて…」
「心配しなくていいのよ。もう一人になんかさせません…ずっとわたしがいてあげます…」
「ねえ…だから、わたしの中にいらっしゃい…」
彩女の瞳から涙が一筋、つうっと流れて、雫が蜘蛛の体に落ちた。
「ウウッ…アアッ…!」
蜘蛛の体から力が抜ける。静女を縛っていた糸もゆるみ、ようやく手足が自由になる。
「ワタシノタメニ、泣イテクレタ…」
「アナタノ波動、トテモキモチイイ…アア、コレデ、ワタシモ…」
蜘蛛の関節が一つずつ落ちる。皮がただれ、糸が溶けて白い液体になる。崩壊―
静女には目の前の光景が信じられなかった。
バラバラになった体が光の粒子―ホタルのような―になり、天に昇ってゆく。幾百、幾千もの、季節はずれのホタルが空に吸われていった。
「マジ…?言葉だけで浄化したのか…?」
母さまの言ったことは本当らしいな。これが慈愛の力、ってコトか。
俺には無理だな、と静女は胸の中で呟いた。

―アリガトウ―
舞い上がる光の中、優糸を膝に抱いて、彩女はそんな声を聞いた。
「今度会うときは、笑って会いましょ」
そう答えて、彩女は満面の笑みを浮かべた。


「チッ、寝てやがる」
静女は彩女と優糸を神社の木の下に運び、ふぅと一息ついた。脱力した人間を運ぶのは少々骨だ。
二人ともお互いに寄りかかり、静かな寝息を立てている。彩女の服に付いていた体液も、光となって消えていた。
緊張の糸が切れ、今までの心労がドッと出たのだろう。姉はしばらく目覚めそうにない。
―今はそっとしといてやるよ。でもな
「…さんざ人に心配かけといて、幸せそうに寝てんじゃねーよ、この」
指で姉の額を軽く弾くと、踵を返し、石段を駆け下りた。体の火照りは、もう消え失せていた。
―ありがとう、静女ちゃん―
うっすらとまぶたを開けて妹を見送ると、もう一度目を閉じ、額で優糸の肩に触れた。



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