笑って会いましょ


女は彷徨っていた。暗く、何もない空間。時折、何もないはずの所から声が聞こえる。嘆き、苦しむ怨嗟の声。どうしてここにいる。なぜこんな風に生まれた―行き所のない怨みの念が女を押し流した。
女は怯えた。いや、女というのも正確でないかもしれない。彼女は何も知らないからだ。自分が誰なのかも、どうしてここにいるのかも―
とにかく、彼女はひたすら歩き続けた。そして問うた。わたしは何なの?ここはどこなの?
闇の奥の、形のない何かが答えた。ココハ鬼界、落チタ魂ノ彷徨ウトコロ。我ラハ鬼、帰ルトコロ無キ魂ノカケラ。ソシテ、オ前モ…
女は、あまりの不気味さに両腕で自らを抱いた。そして気付いた。腕にはなめらかな肌はなかった。かわりに、固い、無数の毛があった。柔らかな唇は無く、かわりに一対の顎があった。
そして、何より。腕は二本ではなかった。八本。彼女の体からは、紛れもなく八本の脚が伸びていた。
彼女は蜘蛛だった。その事実に、彼女は声にならない叫びを上げた。
彼女は駆けた。事実から逃れようと。この世界を抜けようと。しかし、蜘蛛の体は何処までもついてきた。そのことが彼女の絶望をいっそう深めた。
―どれくらい行っただろう。やがて、一条の光が闇の奥に差した。彼女は光に向かった。
光の中に、何かが立っていた。彼女は、その四肢―彼女の半分しかない―を持つ影が何なのか、知らなかった。
こっちにおいで―一緒にいてあげるよ
影が言った。疲れ切っていた彼女は、その言葉に夢遊病者のように従った。
影が手を差し伸べる。彼女は脚の一つをのばし、手に触れた。温かかった。
あなたは、だあれ?
そう問うたとき、影が笑った―彼女にはそう見えた。
ボクかい?ボクはね―


少女はぼうっと窓の外を見ていた。
昼下がりの休み時間。校庭では生徒達の歓声が上がっている。少女がいる教室にも、そこかしこで雑談に花が咲いていた。
窓から吹き込むそよ風が彼女の長い黒髪を揺らした。目に垂れる前髪を、細い指で分ける。
十六、七ぐらいだろうか。大人びた雰囲気がいくらか歳上に見せている。髪は艶やか、紅い紐で一房くくり、左側に垂らしてある。物思いにふける様子が、一種近付きがたい雰囲気をかもし出していた。
―あら…もう、すっかり秋ですのね―
―校庭の紅葉さんもイチョウさんも、衣替えなさってるわ―
「あやめ」
―裏山もさぞや綺麗でしょうね―
「あやめ」
物思いにふける彼女は、自分を呼ぶ声に気づかない。あやめ―少女の名だろう―を呼んだもう一人の少女が、あやめの背後をそ〜っと取った。
―父さまと母さまがお帰りになったら、紅葉狩りでも…―
「あやめっ!」
「きゃ?」
不意に背後から抱きつかれ、あやめは悲鳴を上げた。
「沙々夜ちゃん…驚かさないでくださいな」
「なぁ〜に言ってンの!何回も呼んだのに返事もしないで…何見てたのよ?」
沙々夜と呼ばれた少女が窓から身を乗り出す。そしてある一点を見ると、意地悪な笑みを浮かべた。
「彩女、あんたもようやくお目覚めかしら?」
何のことかわからない、といった顔の彩女に、沙々夜は指で示して見せた。
そこ―校庭の隅、大きなケヤキの下、談笑している数人の少年達がいた。沙々夜はそのうちの一人を指しているらしい。
「ほら、南雲先輩を見てたんでしょ?ああ、彩女もやっと恋する乙女の仲間入り、てわけね♪」
胸に手をやり、瞳に星を浮かべる沙々夜。彩女はまだキョトンとしている。
「南雲って…どなた?」
瞳の星が点になる。
「南雲先輩よっ!南雲優糸!うちの剣道部主将で、頭脳明晰容姿端麗、その上腕も立つし紳士で優しい、私たちのあこがれの的!知らないのっ?」
「まぁ…そんな方がいらっしゃったのねぇ…初耳ですわ」
呆れる友人をしり目に、彩女は沙々夜が指した男を見た。
一見柔和な外見。その気になれば、女装したってわからないだろう。だが、凛とした目つきが意志の強さを表している。
「なんて哀しそうな人…優しすぎるんですのね…」
「はぁ?あんた、何言ってんの?」
何のことかわからない、と聞く沙々夜には答えず、優糸の方を見続けた。
正直、彩女にもなんでこんな事を言ったのかわからなかった。直感だ。何となく、というのが一番正確だろう。強いて言えば、彼の後ろにある重圧を感じたのだ。
―あれは何なのでしょう…強くて、激しくて、とても哀しい…―
…キーンコーンカーンコーン…
彩女がもう一度、南雲を見ようとしたのを、予鈴が妨げる。
「ほら彩女、授業が始まるよ」
「え、ええ…」
沙々夜に急かされ、教科書を取り出す。授業が始まる前、もう一度あの木の下を見たが、あの細い影はもうなかった。

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