鏡よ、鏡


その森は静かだった。時の流れが止まったように、何もかもが変わらぬ装いを見せる。
森の奥。そこには古びた洋館があった。人が住まなくなって、かなり経つのだろう。かつてあったろう壮麗さの面影もなく、獣のすみかとなり果 てていた。
陽光が差し込む空間。人がいた頃は居間だったのだろう。苔に覆われた暖炉には、もはやぬくもりの匂いはない。
居間の片隅に、鏡があった。かなり豪奢な姿見だ。その鏡は、時を保存していた。さんさんと降り注ぐ、廃墟には不釣り合いな日光を反射する輝 きは、作られた当時のままである。
鏡が語る。住人が去った訳を。かつて、彼が映し出した映像を。
鏡の、ひび割れた表面には、黒ずんだ血痕がべっとりと付いていた―


かつて、この洋館には高貴な家族が住んでいた。引きこもりがちの父、驕慢な母。夫婦には息子があった。
息子は長じて、眉目秀麗な若者となった。だが、彼はあまりの美しさから、己しか見なかった。彼は姿見が映し出す影を、恍惚の目で見続けた。
やがて彼は美しい娘を娶った。しかし、それは彼の望みではなかった。政略結婚であったのだが、娘は娘なりに彼を愛した。その愛も、彼は疎ま しく思った。婚礼の後も、鏡に向かう日々が続いた。
しばらくして、息子が生まれた。彼が望んだわけではなかった。幼子は父の愛こそ無いものの、母の愛情をたっぷりと受けて育った。年を経るに つれ、息子は父親そっくりに、いやそれ以上に美しくなった。
男は息子を憎んだ。嫉妬した。そして、妄想が男を支配した。
男は母親と戯れる息子を見た。「あれ」が、ボクの美を汚している。吸い取っている。妄想は止まらない。
消せばいい。無くせばいい。「あれ」さえいなくなれば、ボクが一番だ。

彼は足下で冷たくなっている、かつて息子だったモノを見下ろした。思ったより簡単だった。男の手には血のしたたる斧が握られていた。
これでボクが一番だ。ボクが一番美しい…
もはや白い塊でしかなくなった息子に、哀れな母親は狂乱した。驚き、嘆き、哀しみ、怒った。思いつく限りの悪言を男にぶつけた。
そうだ。この雌が余計なことをするから、こんな事になるんだ。
妄想がささやいた。男は衝動のまま、手にする斧を振り下ろす。恐怖に引きつった妻の顔を、彼は初めて女だと思った。

居間には骸が二つできた。婚姻を強要した母と、反対しなかった父だ。
当然の報いさ―
ボクは、ボクだけのものだ…!
男は解放感にうち震えた。もう誰にも邪魔されず、自分だけを見ていられる。
彼は叫んだ。雄叫びだ。檻から解き放たれた、野獣の叫びだった。
さっそく鏡に近づき、影を映した。そこには、血まみれの服をまとった狂気があった。
その瞬間、享楽は吹き飛び、狼狽が押し寄せた。
なんと醜い。なんて見苦しい。これがボクのはずがない
そうだ。ボクなんかじゃない。お前も、ボクの邪魔をする。
消えろ
消えろ
消えてしまえ
男は拳を鏡に打ちつけた。鏡面に亀裂が走る。破片が手に紅い筋を描いた。
割れた鏡はなおも影を映す。映し出されたのは、狂気と妄執に醜く歪んだ男だった。
これが…ボク…?
存在理由を否定された男はへたりと座り込んだ。両手が何かを探すように床を這う。
固い感触。それは四人の血を吸った斧だった。

最後の理性が吹き飛んだ。

男は斧の刃に、己の顔をたたきつけた。脳漿の混じった鮮血が姿見に無数の斑点を作る。
それきりだった。
それきり、静寂がすべてを包んだ。


すべてを語った姿見は、また静寂に帰った。
鏡の前。柔らかな若草のしげる日溜まり。
そこには頭蓋の割れた、場違いなむくろが眠っていた。

もらいものTOPにもどります
INDEXにもどります